「気づかい」って本当にいいことなの?
気づかいと聴いてみなさんはなにを思い浮かべるでしょう。
・普段から気づかいを意識して生きている人。
・意識はしていないけど気づかいをしている人。
・とくに気にせず気づかいをしない人。
・意識的に気づかいすることを避けている人。
・自分は気づかいをしないけれども他者には気づかいを求める人。
・自分もしつつ、他者にも求める人。
世間一般では良しとされているこの気づかいですが、人格形成や対人関係の問題を長年見てきた僕にとってはずいぶんとやっかいなものに感じられます。
というのもその気づかいという概念が、方向性の全く違ういくつもの問題を生み出しているからです。
◆気づかいで疲弊する問題
かつて女性を育てる時に意識されたことが、といった価値観でした。
いまでも保守的で女性的な子育てをされてきた人、している人の中にはこうした人もいます。
それでなんの問題もなく幸せに生きていける人もいることでしょう。
一方で、その価値観を持たされたことで大きな生きづらさを抱えさせられてしまう人が少なくないことを知っています。
「気づかい」というと人はあまり悪い印象を持ちませんが、「人の顔色をうかがう」という言葉にしたらどうでしょう。
そこによろしくないあり方が含まれていることをみな理解しているはずです。
では、「気づかい」と「人の顔色をうかがう」に明確な境目はあるでしょうか。
◆気づかいが奪う主体性
僕が感じる気づかいによって生きづらさを持たされてしまう人のタイプのひとつは、他者を気づかい続けた結果いつ間にか「自分」が持てなくなってしまうあり方です。
他者のあり方に主体を置き続けるので、自分がどうしたいか、良いのか嫌なのかそうした判断をしなくなったり、それにともなう感情を無意識に麻痺させてしまう人もいます。
母親がそうした人格形成をしている人であったがゆえに、その娘もそうなってしまったケースをいくつも知っています。
それでも問題がなければいいですが、それが生きづらさに転化する人もいます。
例えば、ある時を境に自分は報われていないと感じて、周囲に攻撃的になってしまう人。
自分は頑張ったのに、他者がそれをしないといって他者をさげすんでしまう人。
人は自分のためではなく他者のために頑張り続けられるようにはできていないのでしょう。
無理してそれを続けていると、その負荷がどうしてもドロドロとしたものとして溜まっていってしまいます。
それはさまざまな難しさに派生します。
◆モラハラされる人になる問題
他者を気づかうことを人格形成に刷り込まれてしまった人を見ると心配になることのひとつがモラハラ体質の人に利用されてしまうのではないかという点です。