親が重い問題
「毒親」という言葉は多くの人に知られるようになりました。
僕はそのことは良いことだと思うのです。
というのも、日本のように何かあるいは誰かへの批判を口にすること自体がはばかられる価値観の中で、それが親ともなるとなおさらでした。
虐待を受けて育った人すら、それがどれだけつらかったかということを少し口にするだけでも、「親のことを悪く言うもんじゃない」「親だって頑張っていた」「そうはいってもあなたはここまで大きくなったんだからそれに感謝しなきゃ」などなど、たくさんの二次加害が起こり口をふさがざるを得ませんでした。
他者からの二次加害でなくとも、そもそも自身の受けた被害を認識できないことも起こっていました。
「親は自分のために叩いてくれたのだ」「手をあげるのは親の愛情だったのだ」
そのように、正常性バイアスが働いて、本当は嫌だったことが自身の中で正当化されるということが起こります。
そうなると、それを自分の子に繰り返してしまうといったことが起こりやすくなります。
自分の被害、それをつらいと思う気持ち、そうしたことを認識できることはその連鎖を防ぐことにつながります。
「毒親」という言葉・概念が世に生まれそれが広まるまでそれは簡単ではありませんでした。
さて、今回テーマにしたいのは毒親とまではいかないけれども、しかしなんだかすっきりしない自身の親のあり方、自身の育てられ方の問題です。
毒親----安定的な親
この間にあるもの。
毒親--重い親--安定的な親
この「重い親」「親が重い問題」について考えてみたいと思います。
では「親が重い」とはどういうものでしょうか。
例えば、「期待」が重いものがあります。
少なからず親は子に期待を持つものでしょう。それ自体は少しもおかしなことでも悪いことでもありません。
しかし、程度というものがあります。