「迷惑をかけるな」と教えることの問題
あけましておめでとうございます。
改めて昨年を振り返ってみますと、僕の昨年の思索の中心になったのが「道徳性の解体」であったと感じます。
子育てと人格形成は、ひいては大人になってからのあり方や人生のQOLに直結していくものですが、世間ではあまりそうした観点で子育てが考えられることはないように思われます。
しかし、僕の意識が自然と向くのはその点です。
なぜ道徳性を解体する必要があるかと言うと、主体性の獲得・確立と密接な関連があるからです。
さらに主体性の問題は自立の問題に直結します。
この主体性と自立のあり方が、大人になってからの人生にとても大きな影響を与えています。
しかしながら、これまでの一般的な日本における子育て、教育、社会のあり方では、主体性の獲得と自立の獲得がむしろ難しくなることが指摘できます。
道徳性と主体性の獲得は、ちょうど天秤の両端にのっているとイメージできるでしょう。
道徳性を大きくされれば主体性は目減りします。主体性が希薄化すればそこに道徳性が入り込みます。
◆責任を個人に求める社会
道徳性が強い社会では、ものごとがなんでも個人の問題にされていきます。
例えばSDGsもそうです。
SDGsとは「持続可能な開発目標」です。
元々というか最初から社会構造のあり方を未来を見据えたものに変えていくものであるにも関わらず、日本での認識は環境問題に終始し、それも企業や行政にその責任を求める方向性ではなく、個人にリサイクルや節約を求めたりするものばかりです。
ここがまさに日本における「道徳性の強さ=個人の問題化」が現れている点です。
最近、公共交通機関に乗るとやたらと「カスハラ」(カスタマーハラスメント)をするなという啓発のポスターや広告を見ます。スーパーなどの小売業でも同様のようです。
表面的にあるものだけみれば、そこにカスハラなるものがあるのは事実なのでしょう。
しかし、その背後・本質部分には、現代に生きる人の余裕の無さ(経済的問題や安心して暮らせない社会の問題等々)があり、そこを解決しないことには表面上の問題もなくなりようがありません。
しかしながら、道徳性が強い社会では、個人の問題を追求する方にいき、「悪い行為をする人間を責める」という行動に終始してしまいます。
それでは社会は良い方に向かえません。
◆主体性の希薄化、生きづらさ問題
上記は社会における道徳性の問題を指摘しましたが、今度は子育て・人格形成における道徳性の強さ=主体性の希薄化の問題を見てみましょう。
まず真っ先に挙げられるのが「萎縮」(いしゅく)の問題です。
自分に自信がなく、行動に消極的で自分の意見のない人間に育てられてしまいます。
さらにそれは、NOの言えないこと、依存の強いこと、自立の難しいことにつながっていきます。
自己肯定感の低さもそこには濃厚に関わっているでしょう。
こうした人格形成はさらに対人関係の問題を引き起こします。
配偶者やパートナーへの過度な依存、そこからくる破綻といった問題は、まさに人生に直結しています。
子育てでそれが我が子に向けられると、以前のメルマガでも述べた親が重い問題として我が子への依存・トロフィー化ひいては支配といったことも起きます。
日本の一般的な学校教育においても、主体性は育まれるどころか希薄化されてしまいます。
いまだに日本の学校教育の実際は、個人の自立や自分の考えを持つことやそれを表現すること、主体性を育むことよりも、規範に従うこと、秩序に従順なこと、周囲の空気を読むことや上位者に逆らわないことを子供に刷り込むので、主体性を確立した大人になることが期待できません。
長いものに素直に巻かれる人間になったほうが幸せだと考えるのであれば、そこに違和感を持たないのかもしれませんが、僕が数千人単位の人の生きづらさを聴いてきた経験からするととてもそうは思えないのです。
その人達の多くに共通することが、自分の人生を小さなことから大きなものまで自分で選択して生きていないことからくるしんどさを持っているからです。
◆「迷惑をかけるな」という道徳性
まじめさが引き起こす子育ての問題というのがあります。
これはある意味で日本の子育ての典型のひとつかもしれません。
こんなケースがありました。
とても真面目で一生懸命なお母さんと2歳の女の子。