どうして運動会で「感謝」を言わせるの?
小中学校の運動会を見に行くと、僕はいろんなところに強い違和感を感じずにはいられません。
なかでも児童の安全確保が不十分なことと、感謝をしきりに言わせることです。
安全面では熱中症問題です。
子供たちが日陰もない席で長時間座らされています。
当初、水分補給をしているので安全面に配慮しているという理屈で学校はそれに抜本的な対策をしようとはしませんでした。何人もの複数の保護者が数年言い続けてようやく学校は多少なりとも対策をするようになりました。
ここにひとつあるのは、日本における顕著な教育の考え方のひとつである、「我慢することや困難を乗り越えることに教育的意味がある」とする価値観です。
この考え方は意味がないこともあれば、危険すら招くことがあります。
さて、今日の本題はもうひとつの方です。
息子が6年生のときの運動会では、ご丁寧にも背中に「感謝」と書いたTシャツをクラスで作らされて(費用は各家庭の持ち出し)、運動会の終わりのあいさつでは6年生全員が声をそろえて家庭の人への感謝、地域の人への感謝を言わされています。
そこには強い違和感を感じざるを得ません。
なんとなく学校はそういうことをするし、自分もかつてさせられたのでそういうものだと考えてしまう人も少なくないのかもしれません。
が、こうして一歩引いてみたところから考えると、運動と感謝ってまったく関係ないことですよね。
なぜそれをセットにしてしまうのでしょう。
どれだけの教員がその異常さに気づけているでしょう。
ところでみなさんは、我が子に対して、「育ててもらった恩を忘れずに自分に感謝すべきだ」と考えていますか?
僕の読者の中にはいないかもしれませんが、世間一般の中にはこうした人がいることは知っています。
ある意味ではそれはいたしかたないことです。
戦前まではそれが一般的な価値観だったからです。
儒教的な考え方や家父長制の社会の中ではそうしたことがあたりまえでした。
「仰げば尊し」の歌が象徴的ですが、「師に感謝」というのも儒教の価値観の端的なものです。
現代の学校ではあまり積極的に教員に感謝しろとは言ってきませんが、まあ「~~に感謝」を言わせている時点で言外にそれも求めているのでしょう。
純粋に、なにかしてもらったときに感謝の気持ちを持ったり、「ありがとう」と言うことは悪いことではありませんし、もちろん社会性として必要なことでもあります。
しかし、それらは自然に人の気持ちの中にでてくるべきもので、言わされたり、刷り込まれたりするものではありません。
◆権力構造のための「感謝」
学校が、まして集団に感謝を言わせるというのは、全く違った意味が生じます。