学校でのいじめ問題を考える
最近いじめの映像がリークされることが増えました。
そうしたものは大変ショッキングでもあり、怒りやら悲しみやら恐ろしさ人間不信といったさまざまな感情を呼び起こされてしまいます。
それでもできるだけ冷静にこの問題を考えてみたいと思います。
◆いじめる側とタッグを組む学校
僕自身もいじめ問題の相談を受けることが少なくありません。
それに共通するポイントは、学校側が適切に対応してくれないことです。
一般のニュースでも、学校側が被害の訴えをしりぞけていたり、いじめの報告が書かれたアンケートを握りつぶしていたりといった不適切行為が複数報道されていますが、学校側はいじめをないことにしようとする傾向があります。
ないことにしようとする行為のひとつには「矮小化」があります。
いじめられる側に対して「あなたにも(いじめられる)問題があるのではないですか」といった言葉が投げつけられます。
これを教員がするのは二次加害でもありしてはならないことですが、そうしたケースは現実に少なくありません。
ひとつには、被害側の口をふさぐためにこのアプローチが効果的であること。
もうひとつは、教員自身がいじめる側に近いメンタリティを持っていることです。
教員の中には強さ、できることを好み、弱さ、できなさを嫌悪する人が一定数おります。
それは結果的にいじめられる児童の弱さを否定し、「いじめられるのも仕方がない」という理解・感情をもたらしてしまいます。
教員がいじめ側に積極的に加担したケースとしては「葬式ごっこ」(中野富士見中学校いじめ自殺事件)の事件が有名ですが、そうした積極的加担でなくとも見て見ぬふりをする、いじめを認識しても子供同士のふざけあいなどと些細なことに矮小化してないことにするケースは少なくありません。
実のところこうしたメンタリティは珍しいものではありません。
顕著なのが、痴漢の被害にあった女性に対して「そんな(派手な)格好をしているのが悪い」「そんな時間に歩いているのが悪い」といった、加害側の責任をあげつらって二次加害するものです。
人にはなぜか無意識のうちに、被害側、弱い側を責めて問題を回避しようとする傾向があるようです。
そうしたところに、問題を解決することよりも、問題を起こさないことの方が評価されるという公務員体質が加わるので、いじめ問題はないことにされ、被害側が自己防衛したり、泣き寝入りすることをしいられてしまうことがこれまで少なくありませんでした。
僕が受ける相談にも、校長に相談を持ちかけてものらりくらりとかわしとりあってもらえなかったり、教育委員会にかけあっても対応してもらえないといったケースが複数あります。
あくまで結果的になのですが、問題をないことにすることによって、学校側は加害側とタッグを組むことになっています。
◆みずから信頼を失墜させた学校・教員の問題
そうした中で一般の保護者も、いじめの対処を学校側に任せられないという認識が進んできてしまっています。
結果的に現在では暴行や盗難の事件として学校を介さずに被害届を警察に出すことや、動画をSNSにあげることで問題を隠蔽されない状態にすることで解決を求めざるを得ないといったことが起きています。
そうした事が起これば学校側はなぜそんなことをするのだと憤ります。しかし、そのことは学校自体が招いたことです。
学校側が誠実に適切な対応をしていれば、保護者は学校に解決を任せていられました。
しかし、そうはならないゆえに非常の手段にでなければならなくなっています。
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- ◆学校の機能以上の問題
- ◆学校の治外法権問題
- ◆保護者の自己防衛
- ◆しないのもされないのも大事
- ◆学校という構造
- ◆心理的安全性
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